絶対的な善悪など存在しない 執筆:赤木あつし
こんにちは!
幸せ実践塾塾長の赤木あつしです。
いつもは「リストラブログ」を書いていますが、今回は
「「神との対話」シリーズを読む」
というメルマガからお届けしますね。
今回は第1章の15回目になります。
前回は、体験の苦痛を減らす方法について、
お話しました。
その最後に、
少し気になる言葉がありました。
「神の世界では、なになにを「せよ」とか
「してはならない」とは言わない。
したいことをしなさい。
より大きな自己の姿に
かなっていることを考え、行いなさい。
悪だと感じたいなら、悪と感じなさい。
だが、一方的に決めつけたり、
非難したりしないほうがいい。
なぜ起こるか、何のために起こるか、
あなたがたには理解できないのだから。」
(p.58)
一般的な宗教もそうですが、
倫理や道徳も善と悪とを区別し、
善を行い、悪を行わないように指導します。
しかし「神との対話」では、
何かを「せよ」とか「するな」など、
特定の行為を勧めないと言っています。
これは、これまでの価値観に対する
非常に大胆な挑戦と言えるでしょう。
「わたしは正邪も善悪も決めたことはない。
そんなことをしたら、あなたがたへの
最高の贈り物がだいなしになる。
したいことをして、
その結果を体験するという機会を
あなたがたから奪うことになる。」
(p.59)
前回までで言っているように、
この世は自分自身を体験的に知るという
目的のためにあると言います。
自分自身とは、神そのものです。
そして神とは、「存在のすべて」です。
「存在のすべて」が、
そのすべてを体験するのに、
特定の行為のみをせよと命じるとしたら、
たしかに理に反してますよね。
「あることが--考えでも言葉でも行為でも
--「間違っている」というのは、
それをするなと禁じるのと同じだ。
禁じるというのは制約するということだ。
制約するというのは、
真のあなたがたを否定することであり、
あなたがたが真の自分を創造し、
経験する機会を否定することだ。」
(p.60)
神は私たちに「自由」を与えたと言います。
「自由」とは、制約がないことです。
それなのに、
一方で「神にしたがえ」と言うなら、
神は矛盾していることになります。
多くの宗教では、
神は人に特定の考えや言動を求めている、
と言っています。
何を食べるなとか、何曜日に礼拝せよなど。
そうやって信仰を示さなければ、
ついには地獄に落ちるとまで言います。
多くの人がそういう話を信じて、
神の意に沿った生き方をしようと
心がけています。
しかし、
本当にそんな地獄があるのでしょうか?
「何のために、わたしがそんなものを
創らなければならないのか。
わたしが仮に、あなたがたは天国に
「ふさわしくない」という、
まったく神らしくないことを考えたとしても、
あなたがたの過ちに復讐したり、
罰したりする必要がどこにあるのか。
あなたがたを見捨てれば、
それですむではないか?
どんな復讐心を満たすために、
あなたがたを筆舌につくしがたい永遠の
苦しみに突き落とす必要があるというのか?」
(p.61)
言われてみれば、たしかにそうです。
神が、
変質的な復讐心を持っているなら別ですが、
愛の神が、そのようなことをする必要性は
理屈からしてあり得ません。
でも、もし地獄が存在しないなら、
神罰が存在しないなら、
人々は恐れることなく悪いことをする
という懸念があります
それに対しては、このように言います。
「不安でなければ正しい者にならず、
正しいことをしないのか?
おどかされなければ、
「善良」にならないのか?
「善良である」とはどういうことか?
誰がそれを決めるのか?
誰が指針を示すのか?誰が規則をつくるのか?
言っておくが、
規則をつくるのはあなたがた自身だ。
あなたがたが指針を示すのだ。
自分がどれだけ善良であったかを決めるのは、
自分自身だ。
あなたがたがほんとうは何者であるか、
そして何者になりたいかを決めるのは、
あなただ。そして、
どこまで目的を果たせたかを決めるのも、
あなただ。」
(p.62)
何を善とし、何を悪とするか、
そして、どこまで自分が善良であったか、
決めるのは自分自身だと言うのです。
これは、受け入れ難いことかもしれません。
しかし、この世の目的に照らした時、
この言葉が筋が通っていることがわかります。
「あなたがたが完璧で、すべての行為が
完璧であることを望んだのなら、
神ははじめからあなたがたを
完璧なものとして創ったはずではないか。
肝心なのは、あなたがたが自分自身を発見し、
真の自分、ほんとうにそうありたい自分を
創り出すことだ。
だが、それとはべつの選択肢がなければ、
真の自分を発見して創り出すことはできない。
それなのに、わたしが与えた選択肢の
どれかを選んだからといって、
あなたがたを罰したりするはずがない。
あなたがたに
第二の選択をさせたくなかったら、どうして、
そのような選択肢を与えるだろう。」
(p.62 – 63)
前回までの、この世がなぜこうなのか、
という部分を思い出してください。
愛を体験するためには、
愛でないものが体験できなくてはなりません。
私たちは、神らしくないものとして
まず自分を体験しなければ、
本当は神だということが体験できないのです。
ですから、神らしくない自分を体験した時、
それを「悪」と決めつけて、
罰を与えることは論理矛盾です。
むしろ「よくやった」と褒められるべき
行為になると思います。
私たちはこの相対的な世界で、
自分自身を創造して体験するという、
壮大な目的のために生きています。
「存在のすべて」という膨大なメニューから、
何かを選択して、それを体験するのです。
そして、より大きくなろう、
より素晴らしくなろうとしています。
赤ちゃんは、寝返りさえ打てない、
何もできない存在として生まれます。
それは「悪い」ことでしょうか?
そうではありません。
何もできないという体験があってこそ、
何かができるという体験をして、
その素晴らしさを知ることが可能なのです。
善悪の絶対的な基準があるとすれば、
人はそれにしたがえと、
他人を強制することでしょう。
強制とは、自由を奪うことです。
自主性、自発性を奪うことです。
そういう中では、
自ら選択して自分らしさを追求する
ということは不可能になります。
世界で戦争や紛争が起こるのは、
自らの価値観を絶対的なものとして、
相手にそれにしたがえと迫るからです。
そうやって正義を振りかざすから、
争いが絶えません。
本当は絶対的な正義など存在せず、
それぞれの正義があるだけなのです。
それとも、
反対する人を根絶やしにしても、
自分の正義を押しつけるべきでしょうか?
これについても、
どう考えるかはその人の自由です。
神は何も押し付けたりしないと、
「神との対話」では言っています。
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