十戒はない 執筆:赤木あつし
こんにちは!
幸せ実践塾塾長の赤木あつしです。
いつもは「リストラブログ」を書いていますが、今回は
「「神との対話」シリーズを読む」
というメルマガからお届けしますね。
「神との対話」という本は、著者のニール・ドナルド・ウォルシュ氏が
神と対話したことをそのままに本にしたものです。
ニール氏はカトリックのクリスチャンですから、
対話の中にはキリスト教系の話がとてもよく出てきます。
今回は「十戒」という旧約聖書に書かれた内容が題材になっています。
今回は第5章の1回目になります。
十戒と言うのは、
日本人は「モーセの十戒」として
記憶していることでしょう。
あるいは、
映画「十戒」を思い出されるかも。
ユル・ブリンナーがエジプトの
ファラオ(王)役として出演していました。
モーセ役はチャールトン・ヘストンです。
ユル・ブリンナーと言えば、
思い出すのは映画「王様と私」です。
原作の小説は「アンナとシャム王」です。
そうタイの国王、
ラマ4世を描いた作品です。
いや単に、
私がユル・ブリンナーが好きだったので、
何か縁があるなと思っただけです。(笑)
では、本題に入ります。
著者のニール氏は、
「真の神への道」を神に尋ねます。
禁欲や克己、苦行、奉仕、
あるいは気ままで自由にすることなのか。
「あなたはどうしても方法がひとつでないと
気がすまないらしい、そうではないか……?
いずれも、ということでは
いけないのだろうか?」
(p.128)
まずそう言って、
決めつけたがることを諫めます。
「ほんとうに神を知るためには、
精神から脱する必要がある。」
(p.129)
つまり、頭でっかちになるな、
ということです。
何でも理屈で考えようとする私としては、
耳が痛いですね。(汗)
そこで神は、
「真剣な問いをはぐらかすのはやめよう」
と言われて、驚くことを宣言します。
「十戒などというものはない。」
(p.129)
聖書に間違いなく書かれている十戒を、
神は「ない」と言いきります。
「そんな戒律がどうして必要なのか?
わたしが誰に戒律をまもれと
命ずるというのか? わたし自身に?
それに、そんな戒律がどうして必要なのか?
わたしが欲するものは何でも存在する、
そう言ったではないか?
それなら、どうして誰かに戒律をまもれと
命ずる必要があるのか?」
(p.129)
そう言われてみれば、
たしかにその通りですよね。
「存在のすべて」である神に、
必要なものはありません。
そして、
人間は神そのものだと言っています。
自分が自分に戒律を課すなんて、
そんな馬鹿げた話はありませんよ。
「創造者は支配せず、ただ創造し、
創造する--創造しつづける。」
(p.129)
支配が必要だと考えるのは、
私たちが不安を抱えているからです。
愛の中にいないから、
支配する必要性を感じているだけなのです。
では、あの十戒とは何なのでしょう?
「わたしは自分の姿をかたどり、
自分に似せてあなたがたを創造し--
祝福した。
そして、あることを約束し、言質を与えた。
前にも話したように、あなたがたがわたしと
ひとつになる時がきたときはどうなるか、
という約束だ。」
(p.130)
つまり、
十戒はたしかに神との約束なのですが、
人間が約束したのではなく、
神が人間に約束したのです。
ちなみに、
「新約聖書」の「新約」の意味は、
新しい約束という意味です。
これまでは、人間が神に誓約して、
「その通りにするから救ってください」
というものだと思われてきました。
しかし神は、
神が人間に約束したのだと言うのです。
「神の言葉は戒律ではなく、約束だ。
したがって、これは……「言質」である。
あなたがたは神への道を
たどっていることを知るだろう。
そして、
神を見いだしていることを知るだろう。
なぜならつぎのようなしるし、兆し、変化が
あなたがたのなかに起こるからである。」
(p.130)
こうして神は、
私たちにどのような変化が起こるかを、
十戒の一つひとつに合わせて説明します。
ここでは5番目の「なんじ殺すべからす」に
該当する箇所を引用しましょう。
「5.殺生を(理由もなく、意図的に)
しないとき、
あなたがたは神を見いだしたことを知る。
どのような場合においても、
他の生命を奪えない
(すべての生命は永遠である)ことを
理解するとともに、
神聖で正当な理由がなければ、
輪廻の一時期にある生命を壊しはせず、
生命エネルギーの形態を変化させもしない。
あらためて生命を尊敬するようになれば、
植物、動物を含む
あらゆるかたちの生命を敬愛し、
最高の目的にかなっているときだけ、
生命体に影響を及ぼすようになる。」
(p.131)
「これらのしるしが生じたとき、
あなたがたは神への道を
見いだしたことを知るだろう。
まじめに一生懸命に神を求める者なら、
ここで否定されていることをしないと、
わたしが約束するからだ。
そうしたふるまいを続けることは
不可能になるはずである。」
(p.132)
ちょっと長かったのですが、
このように神は言います。
つまり、「盗むな」「殺すな」ではなく、
「盗まなくなる」「殺さなくなる」なのです。
「これは制約ではなく、
あなたがたの「自由」だ。
これは、わたしの戒律ではなく、
わたしの「言質」である。」
(p.132)
前にも言っているように、
私たちは自由な存在です。
自由とは、何ら義務や責任を負わない、
ということになります。一切の制約がないことが自由ですから。
ですから神は、これは制約ではなく、
ただ「いずれそうなる」という
神の約束なのだと言うのです。
「わたしが誰に戒律をまもれと命じるのか?
わたしの戒律が
まもられなかったからといって、
誰を罰するのか。
在るのはわたしだけだ。」
(p.133)
たしかにその通りです。
神とは「存在のすべて」ですから、
在るのは神だけです。
神が神に戒律を守らせようとし、
守らなければ罰するというのは、
矛盾も甚だしいことがわかります。
ですから、神罰も仏罰もありません。
したがって、天国へ行くためだからと、
神の戒律を守るのはナンセンスです。
「「天国へ行く」のではない。
自分がすでに天国にいると気づくだけだ。
受容と理解があるだけで、
そのための努力や闘いがあるのではない。」
(p.133)
私たちは、最初から天国にいるのです。
ただそれを信じようとせず、
忘れたままでいるだけなのです。
ですからそれを思い出すだけでいい。
そうすれば、そこが天国だとわかると、
神は言っているのです。
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