人生の目的とは 執筆:赤木あつし
こんにちは!
幸せ実践塾塾長の赤木あつしです。
いつもは「リストラブログ」を書いていますが、今回は
「「神との対話」シリーズを読む」
というメルマガからお届けしますね。
今回は第1章の9回目になります。
前回は、心の声にしたがう
という話でした。
今回は
その続きになります。
前回、あらゆる生命の目的は
「できるかぎりの栄光を体験する」ことだ、
という話がありました。そのことについて、こう続けます。
「この目的のすばらしいところは、
決して終わりがないことだ。」
(p.36)
さらに、こう言います。
「最高の秘密は、人生とは発見ではなく
創造のプロセスだということだ。
あなたがたは自分を発見するのではなく、
自分を新たに創造していく。
だから、
自分が何者であるかを知ろうとするのは、
もうやめなさい。
そうではなく、何者になりたいかを考え、
そうなろうと決意して努力しなさい。」
(p.36 – 37)
ここは、
とても重要なことを語っています。
人生というのは、
「私たちが何者であるか」を
発見するプロセスではなく、
なりたい者になるという
創造のプロセスだと言っています。
考えてみれば、
これは当然のことと言えるでしょう。
もし私たちが、
神をかたどって創られた神の子であるなら、
神と同様に創造できるはずです。
創造することこそが、
私たちの生き方になっていなければ
おかしいのです。
そして、神が永遠の存在であるなら、
私たちもそういう存在です。
したがって人生の目的が、
有限であってはおかしいのです。
このように、
指摘されてみるとなるほどと感じることが
この本には多々出てきます。
それだけ私たちが、
間違った思い込みをしている
ということですね。
ところで、
人生は魂の学校のようなもので、
愛などを学びながら魂が成長するために
この世が存在する、
という考え方があります。
他には魂の修行の場である、
というのもありますね。
こういった考え方には終りがあります。
学校なら卒業すれば終わりです。
修行なら到達点があるでしょう。
そうすると、
さっき神が言ったことと矛盾します。
それに、そもそもなぜ学んだり
磨いたりしなければならないのか、
その理由が不明確です。
そこでニール氏は、
このことを神に尋ねます。神はすぐさま、
それは神話だと否定します。
「学校とは、
知らないことを教わりたいと思うとき、
行くところだ。すでに知っていて、
その知識を体験したいというときに
行くところではない。
(あなたがたの言う)人生とは、
概念として知っていることを
体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。
すでに知っていることを思い出し、
それにもとづいて行動すればいい。」
(p.38)
言われてみれば、その通りとも思えます。
私たちの魂が、
本来、完璧な存在だとするなら、
学ぶ必要も修行する必要もないはずです。
逆に、これまで言われているように、
魂が未熟だとするならば、
なぜ未熟に生まれるのかを
説明する必要があります。
しかし、学校説や修行説を唱える人で、
その疑問に答えた人はいません。
「神との対話」では、
すでに知っていることを思い出して、
それを体験する場だと言います。
「魂--あなたがたの魂--は、
知る必要のあることはすべて知っている。
隠されていることは何もないし、
知らされていないこともない。
だが、知っているだけでは、充分ではない。
魂は体験したがっている。
自分が寛大であることを知っていても、
寛大さを示す何かをしなければ、
概念にすぎない。
親切であることを知っていても、
誰かに親切にしなければ、
自意識があるだけだ。
自己についての偉大な概念を
偉大な体験に変えたい、
それが魂の唯一の望みだ。」
(p.38 – 39)
このことは、魂を神に置き換えてみると、
わかりやすいと思います。
魂は神の分け御霊であり、
神と同じものですからね。
つまり神は、自分自身を体験したくて、
この世を創ったというわけです。
「寛大」や「親切」を概念的に知っていても、
体験しなければただの概念です。
とりわけ「愛」という概念は、
愛さなければ体験的に知ることができません。
神は自分自身を
体験的に知りたかったのです。
「すばらしいというのは、どんな感じなのか、
知りたがった。
だが、それは不可能だった。なぜなら、
「すばらしい」という言葉そのものが
相対的なものだったから。
「存在のすべて」は、すばらしくないとは
どういうことかわからなければ、
すばらしいとはどんなものかを
知ることができなかった。
否定があってはじめて、肯定があるからだ。」
(p.39 – 40)
つまり、絶対的な存在である神、
ここでは「存在のすべて」は、
比較対象がないから、
体験的に知ることができないのです。
「存在のすべて」の外側に何かがあれば、
それは「存在のすべて」という定義に
矛盾します。
ですから、「存在のすべて」のままでは、
何も体験できないのです。
人生の目的は、
何かを学ぶことではありません。
魂の修行でもありません。
ただ、より自分らしい自分を選択し、
それを創造して体験すること。
私たちはそのために、
この世で生きているのです。
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