安定を捨てる生き方 執筆:赤木あつし
こんにちは!
幸せ実践塾・塾長の赤木です。
通称「リストラブログ」と呼ばれる、このブログ記事を書いています。
2016年5月に54歳でリストラを宣告され、6月に解雇されました。
金なし(貯金はほぼゼロ)、手に技術なしと、ないない尽くしの私が、
いったいどうやってきたのか。
そのことをありのままに書いていますので、気になる方は
過去の記事をご覧になってくださいね。
●人間が持つ2つの欲求
自立型人間育成の講師として活躍されている福島正伸さんは、人間には2つの欲求があると言っています。
「人には大きく分けると、二つの欲求があります。
それは安楽に生きていきたいという欲求と、充実した人生を送りたいという欲求です。
(中略)
そしてこの安楽の欲求は、他へ依存する意識を生みます。なぜなら、その方が楽だからです。子どもの頃は両親や先生に依存し、そのままでいると社会人になっても、会社や社会に依存してしまうことがあります。どんな人にも、安楽に生きていきたいという欲求がありますが、その欲求がどれだけ満たされたとしても、生きがいを得ることはできません。生きがいを得るために必要なのが、自分を社会のなかで活かしたいという充実の欲求を満たすことだからです。」(「夢を叶える」p.89)
「安楽の欲求」と「充実の欲求」という相反する2つの欲求です。
「安楽の欲求」を追求すれば、失敗や危険を避けようとするため、
何かに挑戦するとか、自分を拡大するということをしなくなります。
できるとわかっていることしかやらないし、同じことを繰り返すことになるため、
人生は退屈なものになります。
一方の「充実の欲求」を追求すると、逆に何かに挑戦して、自分を拡大しようとします。
常に新しいことをしようとしますから、失敗も増えるし、危険な目に合うこともあるでしょう。
しかし、ワクワクドキドキの人生になります。
どちらが良いかは、人それぞれだと思います。
ただ、福島さんは、「充実の欲求」を追求することを勧めています。
「安楽を求めて他に依存しようとする考え方が依存型思考であり、また、充実の欲求に基づいて自分に期待しようとする考え方が自立型思考です。
自立型思考とは、他人や環境に依存するのではなく、自分自身の可能性を信じ、自分の力を最大限に発揮する考え方です。」(「夢を叶える」p.93)
「充実の欲求」を追求する「自立型思考」によって、「自立型人間」になることが、
よりよく生きることになると言うのです。
●私は「依存型思考」でした
私は、福島さんの説によれば、「依存型思考」でした。
「石橋を叩いても渡らない」と自称したほど、臆病な人間だったのです。
自分で「完全主義者」とも言っていましたが、
それはつまり失敗を恐れて挑戦しなかったからです。
初対面の人が苦手で、新しい土地に馴染めない。
だから、旅行も好きではないし、
馴染んだ土地、馴染んだ人間関係によって心がやすまったのです。
そんな性格でしたから、大人になることが不安でした。
大人になったら、自分で考えて行動しなければなりません。
「自分は正しい選択ができるだろうか?」
そう考えると、怖くてたまらなかったのです。
ですから将来は、実家の近くで生活できるようにと、
田舎でもできる教職を考えました。
しかし、そのためには、大学を出なければならず、
やむなく一人暮らしをすることになったのです。
●「自立型人間」に変わっていく
大学に通うために一人暮らしをしたことが、私が変わる1つ目のきっかけになりました。
「自由」の喜びを得たことと、少しだけ自信を持てるようになったからです。
その後、2つ目の大学に入り直すために東京へ出たこと、
タイで暮らすようになったことなど、いくつか大きく変わるきっかけがありました。
この辺のことは、ブログのプロフィールなどに書いていますので、
興味のある方はそちらもご覧ください。
先ほどの福島さんの本など、たくさんの本を読んだことも、自分で変わる助けになりました。
知識を得て、それを実際に行動に移す。
そういうことを少しずつやっていく中で、「石橋を叩けば渡れる」くらいになったのです。
そして、3年近く前のリストラは、さらに大きく変わるきっかけになりました。
お金があるということの安心感を、捨てさせられることになったからです。
3度の奇跡が起こったことでお金はなくならなかったのですが、
もうすぐなくなるという危機感を抱きました。
そうやって何度もお金がなくなる危機感を感じると、感覚が麻痺するのでしょうね。
今も預金は乏しいにも関わらず、いざとなれば残りを全額使ってもかまわないと、
平気で言える私がいます。
とは言え、基本的な性格はそう簡単には変わりませんよ。
相変わらず臆病だし、内向的だし、旅行もそんなに好きじゃありません。
ただ、不安を感じることは圧倒的に少なくなったと思います。
すぐに前向きな考え方に切り替えられるようになりました。
家も仕事も捨てて生活をしている「いばや通信」の坂爪圭吾さんは、
こんなことを言っています。
わたしは「真・善・美」を愛している。わたしにとって、真理とは『人間をスカッとさせるもの』である。痛みを伴う場合もある。苦痛を伴うこともある。が、同時に、必ずある種の浄化を伴う。真理は人間を自由にする。しかし、この世界には罠が多い。真理を装った「真理風の偽物」は多い。たとえば、良い学校に行って、良い企業に入る。これは、一般的には正論なのかもしれないけれど『スカッと感』がまったくない。わたしは、もう、スカッと感のないものを自分の人生に採用しない。決めたのだ。スカッと感のないものを採用すると、途端に人生が窮屈になる。真理には、必ず『スカッと感』がある。毎日は選択の連続だ。中途半端な選択、無難な選択を続ける日々に『スカッと感』は少ない。が、ああ、これは完全に良い金の使い方をしたな、とか、ああ、これは完全に正しい選択を自分はしたな、と思える瞬間には、必ず『スカッと感』『パアッと感』『ジュンジゥュワア感』がある。
君は勘違いしてるんだ。道を選ぶということは、必ずしも歩きやすい安全な道を選ぶってことじゃないんだぞ。みたいなことをドラえもんが言っていた気がする。わかる。わかる気がするよドラえもん。水滸伝を読んでいると喧嘩のやり方を学ぶ。乱暴にまとめると、喧嘩に負けるときは大概『思い切りが足りないとき』なのだ。次の一歩を考える。この、考えた瞬間に『迷い』が生まれ、踏み込む一歩の威力を奪う。結果、中途半端な結果を生む。守りにはいった瞬間に、敗北がはじまる。基本的に『攻め』の姿勢を失った瞬間に、人間は老いるのだろう。消極的な意味での『死』を、自分の懐に招き入れてしまうのだろう。これから先、影響を受けたアーティストは誰かと問われまくるのだろう。答えは用意してある。バッハ。G線上のアリアを聞くと、わたしは「生も死もねえな」という気持ちになる。死にたいは、生きたいだ。生きたいは、死にたいだ。遺書ではない。遺言を残したいと思う。
(「道を選ぶということは、安全な道を選ぶことではない。」2019年3月12日の投稿)
「生きる」とは「死なない」ことではありません。
様々な恐れ(不安)を捨てて、死の不安も乗り越えて、
それでも自分らしく生きようとすること。
それが「生きる」ということなのだと思うのです。
私たちの魂は、「生きる」ことを求めています。
だから私も、魂の導くがままに生きようと思うのです。
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